挨拶:日常語に生きる禅の言葉より

何気なく使ってる「挨拶」という言葉の元の意味を知りました。大事なことだと思ったので転載させて頂きます。

挨拶(アイサツ)
人間関係に関する言葉で、「挨拶」は禅語でも「アイサツ」と読む。しかし意味は異なる。禅とは仏教の基本的なあり方であるので、仏教の言葉は禅の言葉と言って良い。禅語で言う「挨拶」は、単に初めて会った人に対する御機嫌伺いの言葉ではない。

「互いに和みあって」、「相手の心を開き(挨)、その中に自分の心を投げ入れる(拶)こと」を言う。
「挨」には、<押し開く><近づく>、「拶」には、<迫る>という意味があって、「挨拶」という熟語は、もともと<押し合って進む>という意味であった。

禅宗では、<弟子の心境の深浅を試み、かれの器量を知る>ときの言葉である。<肌にふれないで、心で心を読む>のが「挨拶」である。 欧米では初対面の人と握手したり接吻をして、直接相手の身体と触れ合うが、インド人の合掌、中国人の叉手(サシュ)、朝鮮人や日本人のお辞儀などは、相手と間隔を置いて挨拶する。顔の表情や態度を見て、相手の心を読む。

相手がこちらの挨拶に対して応答が出来ないようなことがあれば「棒喝」が加えられる。詳しくは「払拳棒喝(ホッケンボウカツ)」と云い、「払」とは「払子(ホッス)」、「拳」とは「げんこつ」、「棒」とは「杖」のことで、「喝」とは「大声で怒鳴る」ことである。弟子を教育するとき、師は大声で怒鳴りつけたり、手に持っているもので相手を叩き、眼を覚まさせたり、奮起を促す。禅宗の「挨拶」は命がけで、心と心がぶつかり合う。極限の状態になると、言葉では伝えられず、そうすると自然に「払拳棒喝」の方法しかとれなくなる。しかし、警策(キョウサク)は日本で生まれた。中国でも使われていなかった。仏教には、元々は「払拳棒喝」はなかった。

(出典:田上太秀氏(駒沢大学名誉教授)「日常語に生きる禅の言葉」http://kozu5.la.coocan.jp/zuisou/09.01.17.zen.htm より。)   

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